• Hiroyuki Fukuhara

Bloom Touch飛猫の叡智の海を潜る


「触れる」ということについて何度でも立ち返ってくる、道標のようなOSHOの言葉です。

『マッサージを学ぶことには始まりはあっても終わりはない。その奥行きは深く、その経験は絶え間なく深まってゆき、どこまでも高まってゆく。マッサージは最も微妙なわざのひとつだーーそれはたんに経験の問題ではない。愛が何よりも重要になる…。

 テクニックを学び、それからそれを忘れなさい。次はただ感じ、フィーリングによって動きなさい。あなたが深く学んだとき、その仕事の90パーセントは愛によってなされ、10パーセントがテクニックによってなされる。まさにその触れることによって、愛情深く触れることによって、肉体のなかの何かがリラックスする。

 相手の人を愛し、慈しみを感じるなら、それも彼に究極の価値を感じるなら、彼を直さねばならない機械ではなく、とてつもなく価値があるエネルギーとして扱うなら、彼が自分を信頼し、彼のエネルギーとあそぶことを許してくれることに感謝を感じるならーーだんだんとあなたは、自分がまるでオルガンでも弾いているように感じはじめるだろう。全身がオルガンの鍵盤になり、肉体のなかにハーモニーがつくりだされるのを感じることができる。その人が助けられるだけではなく、あなたもまた助けられる。

 世界にマッサージが必要とされるのは、愛が消え失せてしまったからだ。かつては恋人どうしの触れあいだけで十分だった。母親は子どもに触れ、子どもの肉体と遊び、それがマッサージだった。夫は妻の肉体と遊び戯れ、それがマッサージだった。それで充分だったし、充分すぎるほどだった。それは深いリラクゼーションであり、愛の一部だった。

 だが、これは世界から消え失せてしまった。だんだんと私たちはどこに触れるか、どのように触れるのか、どれだけ深く触れるのかを忘れてしまった。実のところ、触れあいは最も忘れられている交わりのひとつだ。私たちはほとんど触れることに恐れを抱くようになった。なぜなら、まさにその言葉がいわゆる宗教的な人々によって汚染されてしまったからだ。彼らはそれに性的な色合いを与えた。その言葉は性的なものになり、人々は恐れるようになった。誰もが触れられまいと身を固くしているーー私が許さないかぎり触れるな、と。

 いまや西洋では、もう一方の極端が生じている。触れあいとマッサージは性的なものになった。もはやマッサージは性的なものの覆い、目隠しでしかない。実際には、触れあいもマッサージも性的なものではない。それは愛の働きだ。愛がその高みから落ちると、それは性的なものになり、それは醜いものになる。だから、祈りのこころを持ちなさい。相手の身体に触れるとき、祈りの気持ちになりなさいーーまるで神自身がそこにあるかのように、あなたはただそれに仕えているかのように。すべてのエネルギーとともに流れなさい。肉体が流れ、エネルギーが新たな調和のパターンをつくりだしているのを見るとき、あなたはいままで一度も感じたことのないような歓びを感じるだろう。あなたは深い瞑想に落ちる。

 マッサージをしているときは、たんにマッサージをしなさい。気が散ってしまうから、ほかのことは考えてはいけない。まるで自分の全存在、自分の魂のすべてがそこにあるかのように、指先と手に集中しなさい。たんに肉体に触れるだけではいけない。あなたの魂そのものが相手の肉体に入り、それに浸透し、最も深い錯綜(コンプレックス)をリラックスさせる。

 それを遊びとしてやりなさい。仕事としてやってはいけない。それをゲームのように楽しむがいい。笑い、相手にもまた笑いをもたらしなさい。 』

         HAMMER ON THE ROCK 「英知の辞典」 OSHO


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