• 福原 裕之

Bloom touch 飛猫の叡智の海を潜る


こんにちは。

ブルームタッチ飛猫(とびねこ)のふくはらと申します。

このブログでは、私のこころに触れた古今東西の賢者たちの叡智の言葉を紹介していきます。

アオウミガメが深海を潜って様々な生き物たちと出会うように、叡智の海の中で見つけた宝物のような言葉、叡智の断片を少しづつ載せていきたいと思います。

それでは早速ですが、私が敬愛してやまないインドの聖者、シュリ・ラマナ・マハルシの言葉から始めていきます。

『 生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。

そのためには、「私は誰か?」という問いで探求する知識の未知が最も重要な方法である。

身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探求するなら、それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所である。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。

「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。

想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところなく完全に消滅させること、それが無執着である。真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。

幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出ていくと、不幸を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたのもが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我ー幸福を楽しむのである。このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼きつくようだ。灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、心理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。世界が現れると、不幸を味わうのである。

無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離れないことが智慧である。

探求とは、真我のなかに心をとどめておくことである。瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在ー意識ー至福であることを思いなおすことである。

束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。 』

 「BE AS YOU ARE あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン編


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